2014年12月22日星期一

賞金王・小田孔明の「屈辱と激情」。 負け犬、ケンカ、そして石川遼――。

賞金王・小田孔明の「屈辱と激情」。 負け犬、ケンカ、そして石川遼――。 スコットランドの突風にあおられながら、少年はお手製のプラカードを掲げていた。  ターンベリーで行われた2009年の全英オープン初日。小田孔明の組を追うわずかなギャラリーの中には、見知らぬ日本人選手を追う、現地の小学生と思しき男の子がいた。小田孔明  遠く離れた親類か。あるいは発掘好きな“超”では済まされないほどのゴルフ通か。  残念ながら、真実はどちらでもなかった。  スタート時刻が早朝から夕方にまで及ぶ全英の戦いで、小田の初日のティオフは午後4時半前、出場156人で最後だった。著名選手を除けば、予選の組み合わせは基本的にはランダムに決まるのだが、その少年はどうもひねくれた解釈をしたらしい。 「最後に回るってことは、彼は全員の中できっと一番ヘタなんだと思うんだよ。だから僕は、オダを応援する」  段ボールのような紙切れに書き殴られていたのは「ODA UNDERDOG」の文字。オダ、アンダードッグ(弱者、負け犬)――。当時31歳の彼は、自分のことを勝ち目など微塵もない選手と見立てた、この小さなファンを引き連れてラウンドしたのである。  今年の日本ツアー賞金王の頭には、そんな苦い記憶がこびりついている。だが振り返ればそれも、屈辱に満ちたキャリアのほんの一部にすぎなかった。 学校帰りにケンカを売られる日常。  父・憲翁さんに導かれ、クラブを握ったのは7歳の時。近代的とか、科学的とかいった教えとは一線を画する指導法で、土の上に並べられた古びたボールをひたすら打った。「頭は絶対に動かすな」が信条で、額の横にはいつも父がかざしたクラブがあったが、ミスショットをすれば、それは途端に体罰の道具になった。小田孔明 「地元は福岡の田舎も田舎」。同世代のゴルフ友達など皆無。世にはびこる「ゴルフは金持ちのスポーツ」のイメージから、浮いた存在になった。毎日300回の腹筋、腕立てに始まる筋トレで鍛えた体は、悪い意味で周囲の目に留まるようになり、学校帰りにケンカを売られるのが日常になった。 諸葛亮孔明から取られた名前も嫌いだった。  諸葛亮孔明から取られた珍しい名前も嫌いだった。今でこそ、漫画『三国志』(横山光輝著)、孔明の最期が描かれた59巻を読み返せば必ず涙が出る。だが「学校で最初からちゃんと呼ばれたことはなかった。コウミンなんて言われたり」。漢字でサッカーは蹴球、バスケットボールは籠球、ゴルフは実は孔球(打球)と書くのだが、そんなことを周囲が知る由もない。  心に深い傷を負った小学校の卒業式。生徒が夢を発表する場で「プロゴルファーになりたい」と宣言すると、父兄に大笑いされたという。うつむいて、悔しさを噛み殺しながら心に誓った。 「こいつらをいつか見返してやる」。成長の原動力は、屈辱を味わうたびにいつも湧き上がる、そんなシンプルな反骨精神だった。 「パターは谷口さん、ロングアイアンは伊澤さん」  プロとしての道のりは順調そのものである。2007年に初シードを獲得してから、年間の賞金ランクが最も低かったのは'08年の13位。高いレベルで安定した成績を残し続けてきた。小田孔明  人並み外れた反骨心を武器にステップアップしてきたキャリアについて、小田は「出会ってきた人に本当に恵まれた」と振り返る。  千葉の高校を卒業した後、11もの大学からのオファーを蹴って地元に帰り、ゴルフ場の研修生になった。しかし19歳の時に腰を患い、実戦から離れる時期を経験した。専門知識もないままに続けた筋トレで、体重は120kg。小田の身体を心配した先輩の忠告が、才能を一気に開花させた。 「『お前、もう何もするな』と言われて。何カ月か休んで、プロテストの2カ月前からボールを打ち始めたら、すごい球が出るようになった」  2000年のテストで一発合格。筋骨隆々のままでいたら、今の彼はなかったかもしれない。  プロになった後も、同じ福岡には伊澤利光や手嶋多一ら優秀なゴルファーが多くいた。父以外に特定のコーチはつけず、テークバックでインサイドに入る独特のスイングは我流で磨いてきたが、困った時には巨体を折って頭を下げ、屈託なく先輩に教えを請うた。小田孔明 「パターは谷口(徹)さん、ロングアイアンは伊澤さん、グリーン周りは中嶋(常幸)さんなんて具合。自分の悪いところを探して、練習で一緒に回らせてもらった」。肩ひじを張らず、先輩を“処方箋”に見立てる。出会いで得たチャンスを謙虚に活かしてきた。 偉大な先輩、尾崎将司の前で受けた屈辱。 「あの選手をいつか追い越したい」。そんな当たり前の憧れの気持ちを抑えることなく、恥をかき捨ててきた小田には、決して忘れることのできない1日がある。  '07年5月。岡山で行なわれた大会は、悪天候により最終日に1日で決勝36ホールをプレーすることになった。当時まだ未勝利だった小田は最初の18ホール、つまり第3ラウンドを終えて単独首位に立った。組み替えなしで突入した直後の最終ラウンド。「お前の初優勝を見届けてやる」。そう言って老体を引きずり、海辺のコースを一緒に回ったのが尾崎将司だった。 「その少し前に、人づてにジャンボさんが『いいショットを打つ』と褒めてくれていたと聞いてすごく嬉しかった。初優勝がかかったところで36ホール、あのアップダウンの激しいコースを完走してくれて……。本当にありがたくて、絶対に勝ってやろうと思った」  だが、小田は初優勝のシーンを尾崎の目に映せなかった。スコアを伸ばせずに順位を下げ、代わりに優勝したのはアマチュアの15歳、石川遼だった。  ラウンド後、ジャンボは言った。「高校生に負けやがって……丸刈りにしろ」。いま思えば、偉大な先輩の前で受けた最大の屈辱だったかもしれないが、それも反骨心を大いに煽った話のひとつである。小田孔明 職人気質とは正反対の、真っ直ぐな激情。  彼を彩るエピソードには、まっすぐな思いがあふれている。自分のプレーがライバルのスコアに影響しないゴルフでは、同伴競技者やリーダーボード上の敵を意識することは、確かに無駄なことかもしれない。  しかし小田は、他のゴルファーがよく口にする“目の前の一打に集中するだけ”という常套句を頭では理解していても、そうはいかない人間らしさがある。賞金レースが佳境に入るとストレスで不眠になり、胃が爛れた。達観した精神状態に辿りつくことは、結局最後までできなかったのかもしれない。日々のインタビューで「他の選手は関係ない」と着飾ってみても、最後までタイトルを争った藤田寛之は「自分を意識しているのをすごく感じる。あの純粋さ、熱さはいい」と目を細めていたものである。  見かけからは想像しがたい“下戸”の36歳の本質は、「自分は自分」という高潔な職人気質とはちょっと違う。 「見返してやりたい」「あいつに負けたくない」、そんなまっすぐな負けん気を持ったまま大人になり、競技者の本能を覆い隠すことなく、日本一に上り詰めた。  来年7月、小田は賞金王のタイトルで得た資格で、再び全英オープンの舞台を踏む。  ターンベリーの少年は、あのアンダードッグがこんなにも真っ直ぐに、大きく成長した姿を知ったら、どう思うだろうか。小田孔明 コート 種類 バーバリー コート レディース ハリスツイード チェスターコート コロンビア 服 columbia リュック マッキントッシュ ジャケット レッドウィング エンジニアブーツ リーガルシューズ アビレックス店舗 ロビタ バッグ whc 財布 brady バッグ スワロフスキー 店舗

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